4.五月七日
そうだ。確か僕が苳子と付き合い始めた直後のことだった。眞が僕に会っても、目を合わせてくれなくなったのは。
家に電話をしても留守にしていることが多くなる。祖母――ようするに眞にとっては母――は、朝帰りをすることが多くなったとぼやいていた。
それから一年と少し経った高校2年の冬、眞に子供が出来たと苳子から聞いた。
すぐに家に押しかけて、本人に問いつめた。
家には、祖父も祖母もいなかった。
眞は散らかった部屋に寝転んで、雑誌を読みながら、当然のように言う。
「5ヵ月なの。裄が何と言おうと、わたしは生むから」
欲しいから鞄買うよと言うかのように、実にさらっと言ってのけた。
僕とは一度も目を合わせてくれなかった。
「父親は」、僕は尋ねた。
「裄の知らないひとだよ。家庭教師のセンセイで、わたしより4つ年上のひと」
眞は細い指でページを捲る。カラーグラビアには、小さな子供と若い夫婦が幸せそうに肩を寄せ合っていた。
「その人には子供が出来たことは言ったのか?」
「言ったよ。そしたら結婚しようって」
雑誌の端に小さな折り目をつけて、眞はページをさらに捲る。
「何かの冗談だろ? 気が狂いそうだ。どうして眞はそんなに淡々としてられるんだ?」
「だって、もうできちゃったもんは仕方ないでしょ。どうだっていいの、そんなこと。裄には迷惑かけないから。それでいいでしょ」
眞は顔を上げ、眉を顰める。どうして裄はそんなつまらないこと聞くの、とでも言いたげに。
「じいちゃんやばあちゃんは許してくれたのか?」
「まさか。母さんはともかく、父さんが許すわけないでしょ」
「だったら、どうするんだよ」
「だから、結婚するの。子供生んだらすぐ家でてくから、許可ちょうだいって言ったらくれた。もう二度と帰ってくるなって条件で。学校も辞める。別に特にやりたいことがあるわけでもないし」
結局、眞は家を出なかった。高校は中退してしまったけれど。祖父も孫可愛さに、全て許してしまったようだった。
七日が生まれてすぐに、ごくごく内輪に結婚式を行った。
初めて見た五月光陽の印象は、どこにでもいそうな平凡な男だった。どうして眞があんなつまらなそうな男を選んだのかは、今でも分からない。
そして、僕と苳子が同じ大学に通い始めたころ、眞は五月光陽と離婚することになる。原因は、男の浮気だった。慰謝料代わりに、買ったばかりのマンションが眞のものになった。もちろん、残ったローンはあちら持ちだ。
そして僕は、眞と七日とあの男が3人で住んでいた愛の巣に転がり込むことになる。
僕としてはマンションの代金も払わずに済むということはとても魅力的だった。何よりずっと眞と一緒に居られるのだし。
けれど眞は嫌がった。
裄と暮らすくらいなら、光陽とやり直す、とまで言われた。
出てって。と拳で胸を叩かれたこともある。
祖母に「眞と七日が心配なのよ」と泣かれ、ようやく眞は承知したようだった。七日が小学校を卒業するまで、と期限付きではあったものの。
七日が実の父親よりも僕になついていたこともあり、僕は七日の代理「父」になった。
苳子は眞と一緒に住むことに、いい顔はしなかった。でも、僕のすることに文句は言わなかった。結局僕と眞が特別な関係になることはなかったけれど、もしそうなっていたとしても、あの時の苳子は僕を許していただろう。今の苳子なら、どうかわからないけれど。
変な話なのだけど、僕は苳子に愛されていることで、安心して眞を好きでいることができた。
でも。
バランスは、崩れてしまった。
それからの眞は明らかにおかしかった。
何が、と言えば僕に頼りっぱなしのところだ。朝から晩まで僕の後を付いて回り、会社の中でさえべったりと寄り添ってくる。
こんなことは初めてだった。
何があっても僕にだけは頼ろうとしなかったあの眞が、営業先へ出向こうとする僕に、「行かないで」とスーツの腕を引っ張ったのだ。
僕はもちろん、会社中の人間が驚いていた。
いつもだったらこうだった。
「あら、裄、また営業?」
「そうだけど、何か」
「別に。営業とか言って、苳に逢ってるんじゃないかって思っただけ」
「それって苳子に嫉妬してるってこと?」
「そんな女に見える? ……ちゃんと仕事しろってこと。苳のことは、わたしには一切関係ないことでしょ」
そんなやりとりを知っている分、同僚たちは“ついに川村かわむら裄成と久森眞がゴールインか!?”と囃し立てた。……実際はそんな甘いものはちっともないのだけれど。
大体、甥と叔母は結婚することができない。苳子にも何度も言われた言葉を胸の中でくり返す。
心臓が軋んだ音を立てる。この鈍い痛みが眞だけのせいなのかどうかは分からないけれど。
散々べったりと甘えた後、眞は何事も無かったかのように冷たい態度に戻る。
その繰り返しだった。
家の中でも異常は続いた。
中でも一番参ったのは、夜中に枕を持って眞が僕の部屋へ現れた時のことだ。そのまま彼女は僕のベッドへもぐり込んできた。追い返そうにも、眞の部屋の惨状を知っている僕は、彼女を無下にすることはできない。
困惑する僕にはお構いなしに、独り言のように呟く。
「本当はずっと裄が好きだった。ずっとずっと裄だけと一緒に居たかった」と。
それでもどうしても僕は眞に手を出すことはできなかった。安心しきって眠る眞が「女」になるところを見たくなかった。
手を出さなかったのは正解らしく、翌日起きぬけに言われた。
「わたしの側にばかり居ないで。……気持ち悪い」
苳子からの電話は絶対に取り次いでくれなくなった。ただ結婚式についての相談でしかないにも拘らず。
まあ、苳子も僕の携帯の電話番号を知っていたので、すぐに家への電話はしてこなくなったけれど。
本当はもう後ろめたいことが無くなったから、家に電話するようにしたのにね。苳子は淡々と言っていた。本当に僕への未練はこれっぽっちもないとでもいうように。
眞は僕を振り回し続ける。
それだけならまだよかった。僕が肩透かしを食らうのは、いつものことだったから。
けれどじきに、被害は七日へも広がった。
ある朝起きると、2人分のご飯しか用意してなかった。
てっきり僕の分がないのだと思い、何か怒らせるようなことをしたかと考える僕に、眞は「冷めないうちに食べて」と続けた。そのまま自分もご飯に箸を伸ばす。
「七日の分は?」
尋ねた途端、眞は一瞬固まった。すぐにどうしてこんなことになってるのかと慌てふためく。
学校へ行く準備を整えた七日が、リビングへ訪れた。
僕は七日の分の総菜を皿に盛り分ける。眞はずっと僕と七日を無表情で見据えていた。
「ママ……?」
七日の声にやっと眞は我に返る。
「ゴールデンウィークは何処にも行けないから、七日の誕生日には会社を早く切り上げてお祝いしようね」
その後の眞はごくごく安定していた。
ようやく彼女が元へ戻ったのだと、僕は安心した。
食事が終わり、眞は片付けを始める。
不意に七日は僕のワイシャツの裾を引いて、消え入りそうなほど小さな声で僕の名を呟いた。
「どうした?」
小さな七日と同じ目線になるよう、僕はしゃがみこんだ。
「ママが怖いの」
七日にしては珍しい、年相応の子供びた言葉だった。
けれど、僕はそこまでの大事だとは思っていなかった。
七日の頭を撫でながら、なるたけ彼女が安心できるよう口の端を上げる。
「確かに最近の眞は変だけど……まあ、そのうち直るだろう」
「そう、かな」
七日はまだ気がかりがあるようで、表情が固い。
小さく震える肩を、僕は軽く抱き寄せた。額を七日の狭い額に合わせ、至近距離にある大きな瞳を覗き込む。
「大丈夫だよ。眞も僕も、七日のことが大好きだから。七日が笑ってくれないと、僕はどうしたらいいか分からなくなる。七日に元気がないと、僕は笑えなくなる」
七日はようやく安心したようで、震えは収まった。僕に体を預けた彼女は、驚くほど軽く、僕より少し体温が高かった。小さく響く心音も、少しだけ早いように思える。
「裄くん、ありがと」
七日は僕の頬に軽くキスをした。すぐに僕から離れ、はにかむ様子はとても可愛らしい。
俯きがちに笑む七日は、いつもの七日だった。
「七日、急がないと遅刻するよ」
キッチンから響く眞の声は、冷たく抑揚が無かったことに僕は気づかないふりをする。
今度は七日が不安にならなかったからよかったけれど。
時計を見て、慌ただしくランドセルを背負った七日は、僕の目をまっすぐに見て笑う。翻した小さな背中は、あたしは大丈夫だから、そう言っているようだった。
あっという間に、ゴールデンウィークは最終日となっていた。どうしてこう連休というのはすぐに時が過ぎてしまうんだろう。この数日間僕がやったことといえば、いつまでも終わらない眞の部屋の掃除と幼児化した眞の世話、眞の様子に不安になった七日の慰め役くらいだ。
とはいえ、さすがに今日中には眞の部屋を綺麗――とまではいかなくても人が棲める状況――にしなければ。
リビングで呆けながらそんなことを考えていた。欠伸をかみ殺し、ソファーにもたれかかる。隣で体育座りをしてテレビを見ていた七日は、柱時計を見つめている。
「ママ、起きてこないね」
眞が幼児化して以来、てっきり年相応の子供に戻ってしまった七日が、ぼそっと呟いた。 柱時計を見ると、もう11時を過ぎている。いくら会社が休みとはいえ、これはよろしくない。
「七日、悪いけど」
「ママを起こしてこいって言うんでしょ。そだね、裄くんが起こして、もしいつものママだったら大変なことになるもんね」
七日はすぐにソファーから飛び降りた。
「いーい? 機嫌悪くなると困るから、ママの前じゃあたしに構っちゃ駄目だよ」
念を押すように言って、小さな小さな七日の背中はより小さくなっていく。
僕は再びやることがなくなり、今度は欠伸を漏らした。
窓の外は気持ちよく晴れていて、穏やかな日の光が室内に入り込んでいる。一年で一番過ごしやすい時期だ。せっかくなら、3人でピクニックにでも行けばよかったかもしれない。
七日の誕生日プレゼントもまだ用意してはいないし。
僕は思いを巡らせる。
それにしても、
「遅いな、七日」
いつまでたっても七日は帰ってこない。眞はそんなにも寝起きが悪いわけじゃなかったはずなのに。
おかしく思い、僕は眞の部屋へと足を運んだ。
扉は閉じてあり、中からは少しの物音も響いてこない。七日が眞を起こす声すら聞こえてはこない。
掃除以外の時に眞の部屋に入ったりしたら、間違いなくびんたが飛ぶだろう。
「七日ー、眞起きたかー」
ドアに向かい声を張り上げたものの、返事は返らない。
七日が入れたということは、内鍵はかかっていなかったということだろうけど。
入って確かめるべきか?
僕はドアノブを握り、そのまま思案する。
どうも嫌な予感がするのだ。
「眞ぁ、いい加減起きないともう昼過ぎちまうぞー」
おかしい。おかしすぎる。
手が震えた。
ドアノブを捻ろうとしても、上手く手が動いてくれない。
一度手をGパンで拭いつけ、軽く息を吐く。
覚悟を決め、僕はドアを開けた。
その途端、僕の目に飛び込んだのは……
「眞!?」
七日に馬乗りになって彼女の細い首を締めている眞の姿だった。
ぐったりとした七日は、血の気がひいて生気がない。
「眞、やめろ!」
もう一度声を上げると、眞はようやく七日を解放した。
「違うの、これは違うの」
手を上げ、必死で縋るように僕を見つめる眞を僕は振り払った。
障害物を避けて七日に駆け寄り、投げ出されたままになっている腕を掴む。
なんとか脈はあるようだ。
幾分か落ち着いたものの、まだ状況は飲み込めない。
僕はすぐに眞に救急車を呼ぶよう示唆した。
眞は動揺した様子のまま、それでもすぐに携帯電話ですぐに連絡した。
小さな七日の首には、赤いみみず腫れがくっきりと残っている。眞の手の形そのものに。
ぞっとした。
少しでも遅かったら、七日は死んでいた。
体を抱きしめると、まだちゃんと暖かく、心臓は時を刻んでいた。
「ごめんなさい」
消え入るような声で謝罪する眞の顔を、僕は見ることができなかった。
それからのことは正直、思い出したくもない。
眞には握力が全くなかったこともあり、大事に至らなかったのが幸いだった。
体に傷が残ることもないらしい。すぐに意識も戻った。
念のためその日だけ入院することにはなったものの、七日の心の傷は測り知れない。
眞は七日に会いたがったけれど、僕は彼女を引き止めた。
ようやく目覚めたばかりの七日に、眞の顔を見せたくはなかった。ほかのだれでもない、七日の首を締めた相手の顔は。
代わりに、僕は眞の携帯で五月光陽を呼び出した。仕事を切り上げ、すぐに彼は病院へ訪れた。
七日を引き取ってくれるよう、彼に頼んだ。
僕が口を挟むまでもなく、七日を引き取る話はもうほとんど決まっていたらしく、彼も喜んで七日を引き取ると言った。
驚いたのは、七日も親権が父親に移ることを知っていたことだった。
僕だけが、何も知らなかった。
悪夢のようなゴールデンウィークは終わり、またありきたりな日常が訪れる。
けれど、僕らの前から七日はいなくなってしまった。
5月7日、まさに七日の誕生日に、彼女は久森七日ではなく五月七日になった。
Copyright (c) 2001 Sumika Torino All rights reserved.